いつでも微笑みを

体を壊してやりたいこともなくなってしまったから、自分が思っていることを伝えたいことをとりとめもなくかいていくよ。

【読書感想】あなたはここで、息ができるの?/竹宮ゆゆこ【好き勝手に食べました】

「違う、その後。邏々は俺に、『あれ、人間ぽいな』って言ったんだよ。その声がくっきり蘇って、そしたら俺も、あれ、って思ってた。泣いて怒って喚いている母親を見て、急に、人間ぽいな、って感じた。ていうか……人間なんだな、って。命を一つしか持ってない、一回しか生きられない、この世に一人しかいない、そういう人間。それまでそんなの考えたことなかった。母親がただの人間だ、なんてさ。それはしょうがないことで、それをやめろとか、かえろとか、誰にも言う権利はないんだよな。たとえ子供でも、相手が親でも。まじで、生まれて初めてそう思った。それで、もう帰ろうって思ったのが昨日。で、今、ここにいる」

 あらすじ

私は二十歳の女子大生で、SNS中毒で、アリアナ・グランデになりたくて。でも、いま目の前にあるのは、倒れたバイク。潰れたヘルメット。つまり、交通事故。そこで死を覚悟した瞬間から、“青春の繰り返し”が始まった。でも、何度繰り返しても、避けられない――。息が止まるほど、激しく、熱い、魂と恋の物語。

公式サイトより

感想

 よくあるループ物といったらそれまでなのですが、その範囲で収まらないのが竹宮ゆゆこという作家なんですよね。というかそもそもこの物語を所謂「ループ物」っていう概念でくくってしまうのはいささか安直すぎる考えなのではないのかと感じている。それは私はこの物語がループという構造を使った、主人公邏々の回想録だと感じずにはいられないからである。

 主人公邏々はどこにでもいる今時の若い女の子。そこには特筆するところは全くといっていいほど無い。しかしそこにはフィクションということを感じさせない生々しさがこれでもかと詰め込まれているのである。だからお話にぐいぐいと引き込まれていく。内容が滅茶苦茶であろうとそんなことは関係ありません。これが邏々という女の子なんです。その滅茶苦茶の中にある生々しさが妙なリアリティを感じさせてくれて面白い。

 そしてこの物語が一般的なループ物とひとくくりに出来なかったのは、オーソドックスなループ物は何度も試行を繰り返し最善の結果を目指そうとするのに対し、この物語はループした結果事象はなにも変わらずに終わるという衝撃的な最後を迎えるからである。ループし試行した結果変わらないことが最善の結果であると読者に提示しているのである。

 それは竹宮ゆゆこという作家にとっての「死」という概念を強烈に読者に突きつけていると感じずにはいられない。作者にとって死の概念とは現存する物を引きずるものではなく、未来へ向けての礎となるものなのだ。

 だから邏々はループを繰り返すのに事象を変えようとしなかったのではないか。事象を変えようとする出来事に対し以前と同じアクションを起こしたのではないか。それはもはやループと言うよりは死ぬ間際に走馬灯のように記憶が蘇るといわざるをえない。

 では何故こんな紛らわしい表現を作者はとったのだろうか。ただの回想録にしてもよかったのではないか。それは邏々の想いをより強く読者へ伝えるためだったと私は考える。変えることはできた。いろいろと考えてみた。考えた末に変えないという結末を邏々自身が選択すること。これはとても大切なことなのだ。

 邏々はループの事象の中で気づかされます。恋人である健吾、口うるさいママ、自分とそっくりなパパ。みんなのことが大好きだったのだと。自分が死んだ後に。それはとても愛おしく感じると同時に、なんともいいがたい感情に襲われます。もしかしたら生前から気がついていてループしているうちにそのことを改めて思い直したのかもしれません。どちらにしても気がつけたことをよかったとするのか、気がつくときはいつも手遅れだったと考えるかでこの物語の印象は大きく変わるのではないでしょうか。

まとめ

 That's 竹宮ゆゆこと言わんばかりの作品でした。彼女の作品は何作か読んだけれどどの作品もなんだか分からないけど、最後まで読ませてしまうパワーがある。そしてなんだか分からないうちにラストを迎える。そうしてもう一度読み返してみるとそういうことだったのかと感心してしまう。生きると言うことの不条理さだったり気がついたときにはすでに手遅れだったり…それは本谷有希子の戯曲を読んでいるかのようである。言ってしまえば古くから何度も何度も描かれてきた題材だけれど、私はこんな風に調理します。食べたかったら食べればいいよ。無理して食べることは無いよ。そんな作品です。はい。